北方領土問題
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北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)とは、北海道根室半島の沖合にある島々で現在ロシア連邦が実効支配している、択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)に対して、日本が返還を求めている領土問題。この島を、北方四島とも言うことがある。
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[編集] 概要
地理的には南千島に属するが、色丹島及び歯舞群島については北海道本島の属島という見方もある。アイヌ民族が先住していた。
太平洋戦争後、現在に至るまで、ソ連・ロシア連邦に占領・実効支配されており、日本は固有の領土としてその返還を求めている。現在、日本国民の北方領土関係者およびロシア人北方領土居住者に対して、ビザなし渡航が日露双方に一部認められている。
なお、北千島を含めた千島列島全体の返還を主張している主要政党は日本共産党だけである。全千島は樺太・千島交換条約で平和裡に手に入れた領土だからという主張である。 また、日本の一部には日ソ基本条約などを根拠に「南樺太・千島列島全島返還論」もある。
日本が「国際法上所属未定」と主張する中、日本以外の多くの国は、中・北千島や南樺太については、ロシアの領有権を事実上認めるようになっている。 したがって、海外の地図は、中・北千島と南樺太をロシア領として処理している。 「北方領土」についても、ロシア領と地図上で表現する例が殆どであり、根室海峡のみに国境線を引き、北方領土の部分には国境線を引かずに、地図上の「北方領土」部分に「ロシアが施政権を行使(ないしは占領)、日本が返還要求」という趣旨の記述を加えている地図出版社も見られる。
日本の歴史・地理教科書においては、教科書検定の存在により、外務省の主張に沿った形で表記される。 つまり、北方領土は、ソ連(ロシア)による不法占拠であり、中・北千島や南樺太は、領有権未定(暗にロシアによる不法占拠という主張)として表記される。 ただし、中学・高校レベルの教科書(大学でも、当該地域の地理や歴史を専門としない場合は同様)では、当時のソ連が侵攻してきたという事実と、現時点でもロシアが不法占拠しているという点が強調され、その他の経緯(後述する、戦前の北方領土の扱いや、日ソ共同宣言の交渉時には、日本政府自身が二島返還で合意していた事実など)は、省かれる事が多い。
1952年3月20日にアメリカ合衆国上院は、「南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、色丹島、歯舞群島及びその他の領土、権利、権益をソビエト連邦の利益のためにサンフランシスコ講和条約を曲解し、これらの権利、権原及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない」とする決議を行った。この米上院の決議の趣旨は、サンフランシスコ講和条約第25条として明示的に盛り込まれている。ただし、外交権限は政府にあり、議会には無いので、議会決議が外交を直接拘束する訳ではない。
日本政府は2001年、サハリン州ユジノサハリンスクに総領事館を設置した。
[編集] 領土問題
ロシア連邦が自国領土だとして占領・実効支配している諸島を、日本が返還を求めている領土問題。
1945年(昭和20年)8月14日に日本がポツダム宣言の受諾を決定した後、1945年8月28日から9月5日にかけてソ連軍は北方領土に上陸し占領した。北方領土は現在に至るまで戦後約61年に渡りソ連およびそれを継承したロシアが実効支配を継続している。ロシアによる事実上の領有状態の為、日本政府が領有権を主張しているものの、一切の施政権は及んでいない。
[編集] 北方領土関係史
日本政府は、「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争(大東亜戦争)以前は一度もない」と主張しているが、実際には、1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。また、最上徳内が和人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られている。
- 1855年
- 日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。
- 1869年
- 1875年
- 日本とロシアは樺太・千島交換条約を結び、「それまでロシア領だった千島諸島のグループ(le groupe des îles dites Kouriles qu'elle possède actuellement)」を日本領、日本とロシアの共同統治としながらも、両国民の紛争の絶えなかった樺太をロシア領とした。この条約はフランス語が正文であったので、日本語訳が作られたが、この翻訳は不正確なものだった。不正確な日本語訳に基づいて、得撫島以北が千島列島であるとの解釈がなされたことがある。
- 条約締結後、当時の行政区分で「千島国」と定められていた国後島・択捉島に、得撫島以北を編入し、国後島から占守島までが千島国になった。
- (1904年-1905年 日露戦争。ポーツマス条約により南樺太が日本に割譲された。)
- (1917年-1918年 ロシア革命)
- (1918年-1922年 シベリア出兵)
- (1931年 満州事変勃発)
- (1937年 日中戦争勃発)
- (1941年 日米開戦)
- 1943年
- 10月、モスクワにおいて米・英・ソ三国外相会談が開かれる(モスクワ会談)。この席上、米国はソ連に対して、南樺太と千島列島をソ連に与える見返りに、対日参戦することを求めた。続いて11月末、イランのテヘランにおいて、米・英・ソ首脳会談が開かれる(テヘラン会談)。この時も米国のローズベルト大統領が南樺太と千島列島をソ連領とする見返りに、ドイツ降伏後の対日参戦を求めた。
- テヘラン会談の直前、カイロで米・英・中三国による首脳会談が開催される。米・英・中三大同盟国は日本国の侵略を制止し、罰する為に戦争をしていること、日本の無条件降伏を求めることが宣言された(カイロ宣言)。カイロ宣言では、第一次世界大戦以後に日本が諸外国より奪取した太平洋諸島の領土を剥奪すること、台湾・満州の中国への返還、日本が暴力・貪欲により略取した地域からの駆逐が定められている。南樺太や千島列島については触れられていない。
- 1945年2月
- 1945年8月~9月
- 8月8日、ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書(ソ連も当然、当事国として署名した)に調印した。同時に一般命令第一号(陸、海軍)では、満洲、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太・千島諸島に在る日本国先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととした。
- トルーマンの「一般命令第一号」原案では、千島列島の日本軍がソ連に降伏するとされていなかったため、スターリンは、ヤルタ協定に基づき、ソ連軍に対し降伏させるようトルーマンに要求。トルーマンはスターリンの要求を受け入れた。しかし、同時にスターリンが要求した、北海道東北部の占領要求は、ヤルタ協定になかったので拒否した。他方、米国側はソ連に対し、千島列島中部の一島に米軍基地を設置させるよう要求したが、スターリンに拒否された。
- 8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連第二極東軍部隊は、8月25日に南樺太を占領。すでに、千島列島をソ連が占領することを、トルーマンと合意が取れていたので、8月28日から9月1日までに、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した。なお、8月18日にカムチャツカ半島方面より千島列島に侵入した第一極東軍部隊は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領している。
- 1946年~1949年
- 1946年1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになった。2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。
- 北方領土には日本国民は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。1946年12月、GHQとソ連との間で日本国民全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した。しかし、GHQ指令によって日本国籍を離脱していた朝鮮人はその後も帰還することができず、多くはサハリン(樺太)に移住した。
- 1951年
- サンフランシスコ講和条約で、日本は千島列島を放棄する。平和条約国会で、政府は、日本が放棄した千島列島の範囲に、国後島・択捉島が含まれると説明している。(この説明は1956年2月に変更された)
- 1956年
- 日ソ共同宣言(昭和31年条約第20号)で日ソ間の外交関係が回復。領土についてはじめ日本は南樺太・全千島の返還を要求したが、当然それは認められず、譲歩を重ねた末、歯舞群島・色丹両島の返還で平和条約締結に合意しようとした。そのとき、米国が介入、国後・択捉の返還を要求しないならば沖縄をグアムと同じような米国の属領にすると恫喝し、合意を阻止。結局日ソ平和条約は締結されず、締結後に歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡すと記載された条文を盛り込んだ共同宣言で決着した。日ソ交渉に先立って、サンフランシスコ条約起草国である米国や、英国、フランスに対して、同条約中、放棄した千島の範囲について問い合わせをした。米国は北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当として認められなければならないと国務省の覚書として明文化された公式見解を示し、日本の立場を支持している。しかし、英・仏からは日本に好意的な回答は得られなかった。フランスからは、サンフランシスコ会議議事録において日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起する、との回答があった。
- 1957年
- ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった。
- 1960年
- 1973年
- 1981年
- 北方領土の日設定。毎年2月7日を北方領土の日とする。
- 1991年
- ソビエト連邦は解体、ロシア連邦として独立し、領土問題を引き継ぐ。
[編集] 解説
1945年9月2日、日本は降伏文書に調印した。この時、南樺太・千島の日本軍は極東ソ連軍に降伏することが命令され、南樺太・千島はソ連の占領地区となった。1952年サンフランシスコ講和条約発効により、日本は独立を回復したが、同条約にしたがって、南樺太・千島列島の領有権を放棄した。この条約にソ連は調印していないため、ソ連との国交回復は、1956年日ソ共同宣言により行われた。この時、日ソ間で領土の帰属に関して合意が得られなかった。その後、日ソ・日ロ間には、幾つかの共同声明や共同コミュニケがあるが、平和条約締結や領土問題での合意に至っていない。
1941年4月、日ソ間で、日ソ中立条約が締結された。その2ヵ月後、ドイツが突如ソ連に侵攻し、独ソ戦が勃発。日本政府は、御前会議において、情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱を策定、独ソ戦が日本に有利に働いたときはソ連に侵攻することを決めた。さらに、日本軍は関東軍特種演習(関特演)を実施、ソ連侵攻の準備を整えた。しかし、日本政府の思惑とは異なって、独ソ戦は膠着し、日本のソ連侵攻の機会は得られなかった。
ソ連はスターリングラード攻防戦・クルスク戦車戦以降、独ソ戦を有利に展開するようになる。こうした中、1943年11月、テヘラン会談が米・英・ソ三国首脳により開かれ、当面の戦争、戦勝権益の連合国間での分割、連合国の覇権におかれる戦後世界の戦略に関して幅広い協議が行われた。このなかで、米国はソ連に対して、南樺太・千島を与える見返りに、日本との戦争に参戦することを求め、合意された。このときの合意は、1945年2月のヤルタ協定に引き継がれ、さらに、ポツダム会談でも再確認されている。
当時アメリカは米国人の戦争犠牲をなるべく少なくすることを狙っており、そのためには、ソ連の対日参戦が必要だった。独ソ戦で大きな被害を受けていたソ連国民には、更なる戦争への参加をためらう気持ちも強かったが、戦後世界の勢力バランスを考慮したスターリンは米国の参戦要求を了承した。当初ポツダム宣言への連名は、日本と交戦状態に無いソ連は除外されていたが、ソ連は参戦後、ポツダム宣言に参加した。その後、アメリカ主導で作成されたサンフランシスコ講和条約においても、既にソ連が占領している南樺太や千島をヤルタ会談での取り決め通り日本に放棄させる内容となっている。
1945年ドイツ敗北の3ヵ月後、ソ連は米・英との合意にしたがって対日宣戦布告。翌日、ソ・満国境を越えて満州に進攻、8月14日に締結されたソ華友好同盟条約に基づいて、満州を日本軍から奪取した。満州の日本軍は、蒋介石の国民党軍ではなく、ソ連軍に対し降伏すると取り決められていた。翌年3月12日、蒋介石の駐留要請を断って、ソ連軍は、瀋陽から撤退を開始し、5月3日には旅順・大連に一部を残し、完全に撤退した。 一方、南樺太では、8月11日、日ソ国境を侵犯し、日本に侵攻したソ連軍は8月25日までに南樺太全土を占領した。樺太占領軍の一部は、26日に樺太・大泊港を出航し、28日択捉島に上陸、9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領した。歯舞群島は9月3日から5日にかけて占領されている。
1945年9月2日、日本は降伏文書に調印し、連合国の占領下に入った。千島・南樺太はソ連の占領地区とされた。
1952年サンフランシスコ講和条約発効により、日本は独立を回復したが、同条約にしたがって、南樺太・千島列島の領有権を放棄した。条約締結に先立つ1946年末から、日本は米国に対して36冊に及ぶ資料を提出、日本の立場を説明している。この中の2冊は千島に関する事項であることが知られている。このような経緯があって、千島列島の範囲が、日本に不利なように定義されなかったが、同時に、日本に有利なように定められることも、なかった。
サンフランシスコ講和条約をソ連は調印しておらず、ソ連とは、1956年日ソ共同宣言によって、国交が回復した。このとき、日ソ間では歯舞群島・色丹島の返還で合意しようとする機運が生まれたが、米国が沖縄の米属領化をちらつかせて恫喝したため、平和条約を締結することはできなかった。当時は、冷戦体制が構築されるプロセスの中にあり、イギリスとアメリカは日本がソ連と妥協することを望まなかった。このため、デタントを求めるソ連に対して受け入れがたい条件を提示することで、極東地域の冷戦体制を温存する狙いがあった。また、国後と択捉を返還させることで、ヤルタなどで米国がソ連に対し行った過度の譲歩を現実に是正し、少しでも北東アジアでソ連がもつ地政学的な優位を掘り崩したいたいという思惑もあった。以後、米国と親密な関係を維持する日本の外務省は、北方領土問題を掲げることで、ロシアとの踏み込んだ友好関係を築かない方針を貫いている。結果、現在もロシアとの平和条約締結に向けて交渉が行われているが、領土問題に関する具体的な成果は得られていない。
ロシア(ソ連)側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。ヤルタ会談で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されているし、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れている。平和条約の締結こそしていないがロシアは占領地区を既に自国へ編入している。そもそもサンフランシスコ条約で日本はクリル列島を放棄しており、クリル列島には、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島が含まれる(色丹・歯舞を合わせて小クリル列島といい、占守島から国後島までを大クリル列島と言う。小クリル列島と大クリル列島を合わせてクリル列島と言う)。
ロシア側が北方領土の日本返還を認めない理由としてはいくつか考えられるが、まず大きなものとして、ロシア側から見た場合、北方領土問題が解決されていない現在でも日ロ間の経済的交流は進んでおり、わざわざ国民の不評を買うであろう領土の引渡しを行ってまで日本サイドに譲歩する必要性を感じていないということが挙げられる。また、地政学的に見れば、宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)をふくめ、ソ連はオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこから米軍を締め出すことに成功しているが、国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海に米軍を自由に出入りさせられるようになってしまう。国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る上での極めて重要なルートでもあり、これが米国(の同盟国である日本)の影響下に入ることは安全保障上の大きな損失となる。
以前であれば日本側に「ロシアは経済的に困窮している。よってそのうちロシア側が経済的困窮に耐えられず日本側に譲歩し、北方領土を引き渡すであろう」という目論見があった。鈴木宗男失脚以後の日本の外務省の基本戦略は、北方諸島への援助を打ち切り、困窮させて返還の世論を引き出そうとする「北風政策」であるが、問題は、経済的に困窮しているかどうかといったレベルの事項ではない。事実、プーチン大統領就任以降驚異的な経済的発展を遂げたロシアは、2015年を目標年次とする「クリル開発計画」を策定し、国後、択捉、色丹島に大規模なインフラ整備を行う方針を打ち出した。
最近でこそロシア社会において日本に対する認知度は高まってきているものの、いずれも文化的なものか経済的なものであり、またその認識にしてもそれほど深いものではない。サハリン州では、当然日本に対する関心が深いが、これは、現状の国境を承認することを前提として交流を深めようとするものである。 ヨーロッパ議会が北方領土は日本に返還すべきとの提言を出したとの報道がロシアのメディアで流れている。25カ国730人の議員でなるEUの立法機関であるヨーロッパ議会は2005年7月7日に「ECと中国、台湾関係と極東における安全保障」と題された決議文を決議、極東の関係国は未解決の領土問題解決の2国間協定を結ぶべきだとし、具体的には北方領土に関して第二次世界大戦終結時にソ連により占領されたものとし日本と韓国間の竹島問題、中国との尖閣諸島問題を取り上げている。 ロシア外務省はこの決議に対し、日ロ二国間の問題解決に第三者の仲介は不要とコメントしている。なお、ロシア議会では議論になったこの決議文は日本の議会では取り上げられず、日本では読売新聞が報じた程度である[1]。
[編集] カイロ宣言
(和訳原文の一部)
- 三大同盟國ハ日本國ノ侵掠ヲ制止シ且之ヲ罰スル爲今次ノ戰爭ヲ爲シツツアルモノナリ右同盟國ハ自國ノ爲ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土擴張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
- 右同盟國ノ目的ハ日本國ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戰爭ノ開始以後ニ於テ日本國カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國カ淸國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ
- 現代文:
- 三大同盟国(米・英・中)は、日本の侵略を制止し、日本を罰するために戦争をしている。右の同盟国は、自国のために何の利益も要求するものではない。また、領土拡張の考えがあるわけではない
- 右同盟国の目的は、日本国より1914年の第一次世界大戦の開始以後において、日本国が奪取し又は占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖諸島のような日本国が清国民より盗取した一切の地域を中華民国に返還することにある
1943年、太平洋戦争(大東亜戦争)中に米・英・中がカイロで首脳会談をおこなった。この時のカイロ宣言では、日本の侵略を制止し、日本を罰し、1914年の第一次世界大戦以後日本が奪取した太平洋上の領土を奪還することや、満州・台湾を中国に返還することを目的としている。また、米・英・中には領土拡張の考えがないとしている。カイロ宣言は、米・英・中の宣言であるため、ソ連と関係した南樺太や千島列島は、同宣言の奪還の直接対象とはなっていない。
[編集] ポツダム宣言
ポツダム宣言 八 (和訳原文)
- 「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
- 現代文: 「カイロ」宣言の条項は履行されなければならず、また、日本国の主権は本州、北海道、九州、および四国ならびにわれらの決定する諸小島に限られなければならない
ポツダム宣言ではカイロ宣言を履行されなければならないとしている。カイロ宣言では南樺太・千島には言及されておらず、ポツダム宣言でも千島列島・南樺太に関する言及は無い。ただし、四国よりも大きい樺太が諸小島に含まれるとも解釈できない。宣言ではソ連への千島・南樺太の譲与にも言及がない。
[編集] ソ連の対日参戦
詳細はソ連対日参戦参照。
- 8月 8日 ソ連、対日宣戦布告
- 8月10日 ポツダム宣言の受諾を連合国へ伝達
- 8月11日 ソ連、南樺太の国境を侵犯し侵攻
- 8月14日 ポツダム宣言の受諾を決定
- 8月15日 日本国民に向けて玉音放送
- 8月18日~8月31日 ソ連、カムチャツカ半島方面より千島列島に侵入し、得撫島以北の北千島を占領
- 8月25日 南樺太を占領
- 8月28日~9月1日 択捉・国後・色丹島を占領
- 9月 2日 連合国への降伏文書に調印。(一般命令第一号発令。本命令により、千島の日本軍はソヴィエト極東軍最高司令官に降伏することが義務付けられた。)
- 9月3日~9月 5日 ソ連軍が歯舞群島を占領
占領は連合軍「一般命令第一号(陸、海軍)」にしたがって行われた。翌年1月、連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号により、日本政府は、竹島・琉球・千島・歯舞群島・色丹島・南樺太などの地域における行政権の行使を、正式に中止させられた。その直後、ソ連は占領地を自国の領土に編入している。サンフランシスコ平和条約に調印していないソ連が占領した島々を、ロシアが現在も実効支配している。
[編集] サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)
第二章 領域 第二条(c) (和訳原文)
- 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
日本はこの条約でソ連の調印のないまま千島列島を放棄する。条約では千島列島の範囲は明確になっていないが、国会議事録によると、政府は、日本が放棄した千島列島に国後・択捉が含まれると説明している。平和条約は、放棄した千島列島に国後・択捉が含まれるとの認識のもと、国会承認されている。この説明は国内的に1956年2月に正式に取り消され、その後、日本は「北方領土は日本固有の領土であるので、日本が放棄した千島には含まれていない」としている。
[編集] 日ソ平和条約交渉と日ソ共同宣言
日ソ共同宣言(昭和三十一年条約第二十一号) 9
- 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。
1955年6月、松本俊一を全権代表として、ロンドンで、日ソ平和条約交渉が始まった。当初、ソ連は一島も渡さないと主張していたが、8月9日、態度を軟化させ、歯舞・色丹を日本領とすることに同意した。松本はこれで、平和条約交渉は妥結すると安堵したが、日本政府は、国後・択捉も含めた北方四島全てが日本領であるとの意向を示した為、交渉は行き詰まった。
1956年7月、重光葵外相を主席全権、松本を全権として、モスクワで、日ソ平和条約交渉が再開された。当初、重光は四島返還を主張したが、ソ連の態度が硬いと見るや、8月12日、歯舞・色丹二島返還で交渉を妥結することを決心し、本国へ打診。しかし、当時、保守合同直後の与党には、派閥間の思惑もあり、重光提案を拒否、日ソ平和条約交渉は膠着した。さらに、8月19日、重光はロンドンで米国務長官ジョン・フォスター・ダレスと会談、席上ダレスは、二島返還で妥結することをきびしく禁止し、四島返還を主張しないならば、沖縄の返還も無いと指摘した。保守党内部の反鳩山勢力の思惑や米ソ冷戦下の米国の干渉などにより、平和条約交渉は完全に行き詰まった。
1956年10月、鳩山首相は局面を打開すべく、領土問題を棚上げして、すでに妥結している他の問題(戦争の終結、国交回復、未帰還日本国民送還など)で条約(日ソ共同宣言)を締結することを決断、自らモスクワに渡りソ連との交渉に当たった。モスクワ交渉に先立ち、領土問題は棚上げすることで両国の合意が得られていたにもかかわらず、訪問直前になって、自民党は歯舞・色丹を日本領と確約することを共同宣言締結の条件とすることを決議、日ソ共同宣言締結に新たな条件をつけた。鳩山はフルシチョフとの会談で、歯舞・色丹を平和条約締結後に日本に引き渡すことを明記することに成功、日ソ共同宣言の締結を果たした。(参考、松本俊一著『モスクワにかける虹』)
[編集] 日本の返還要求の根拠と異論・反論
便宜上、上の節で既に述べられた事についてもここに記載する。
| 日本の返還要求の根拠 | 争点 | 異論・反論(ロシアの主張を含む) |
|---|---|---|
| 北方領土が太平洋戦争以前にロシア領であったことは一度もない日本固有の領土である。 | 固有の領土 | 一度も他国の領土になった事の無い土地が他国に編入されるのは歴史的にはそう珍しい事ではない。 |
| 1855年の日露和親条約で日露の領土が確定した時に択捉島以南が日本領となっている。 | 固有領土という観念は国際政治の上で存在せず、固有の領土であることは返還の理由にならない。 | |
| 1875年の樺太・千島交換条約で、日露で共同管理していた樺太とロシア領であった千島列島とを交換した際、得撫島以北を千島列島としている。従って千島列島とは得撫島以北のことを指す。(ただしこれは正式な効力を持たない条約の日本語訳を根拠としているものであり、正文であるフランス語の文面ではそのような解釈はできない。詳細は樺太・千島交換条約を参照) | 千島の定義 | 当時、歯舞群島を除く3島は千島国とされていた。また明治初年に導入された旧国制度では国後までが千島国とされた。また、千島の範囲が国後までという根拠は、日本国の辞書に択捉島と国後島を南千島としている事からも明らかである。 |
| 択捉島と得撫島の間には宮部線が通っており、ここを境に植物相が異なる。 | サンフラスシスコ講和条約以前の1950年3月8日の衆議院外務委員会にて島津久大政務局長が、同条約直後の1951年10月19日の衆院特別委員会にて西村熊雄条約局長が、同年11月6日の参院特別委員会に草葉隆圓外務政務次官が、それぞれ「南千島は千島に含まれている」と答弁している(但し、西村・草葉は歯舞・色丹に関しては千島列島ではないと答弁した)。 | |
| 歯舞・色丹は地質構造的に根室半島の延長が部分的に陥没して形成されたもので、千島列島ではなく北海道の一部である。 | ||
| カイロ宣言では、「日本國ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本國ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ驅逐セラルヘシ」とある。翻って、北方四島の領域は日露和親条約で譲り受けて以来受け継がれてきた領域であり、暴力的に獲得した地域ではないので、カイロ宣言で放棄すべきとされた領域には含まれない。 | カイロ宣言 | カイロ宣言は米英中の三国間でのもので、ソ連は参加していないので関係ない。 |
| ソ連の対日参戦や日本敗戦後に千島・南樺太をソ連へ割譲することを決めたヤルタ協定は連合国の秘密会談であり、日本には何の関係もない。 | ヤルタ協定 | ヤルタ会談で、ソ連の参戦や戦後の千島列島・南樺太割譲は米英両国に対し承諾されている。 |
| ソ連はヤルタ会談上、領土要求の密約をしており、ヤルタ協定には国際法上領土を移転させるための根拠がない。 | ||
| 日本は日ソ中立条約を1946年4月の期限切れまで厳守することを明らかにし、ソ連に対してまったく攻撃を加えていないにもかかわらず、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し北方領土を含む千島列島・南樺太などへ侵攻しており、重大な条約違反を犯している。 | 日ソ中立条約 | そもそも日本は関東軍特殊演習などで当時のソ連が連合国側にたって日本に侵攻する可能性を警戒していたので、日ソ中立条約破棄を一方的なものと断定することは難しい。 |
| 進撃開始は日ソ中立条約の破棄を日本国駐ソ大使に宣言した後である。条約破棄の伝達が遅れたのは、日本政府の探知が遅れただけに過ぎない(実際には電話線が切られていたと言う説がある)。 | ||
| 東京裁判確定判決は日ソ中立条約を“誠意なく、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたもの”と認めている[2]。 | ||
| SCAPIN677は暫定的な命令であり、日本の領土の定義を定めたものではない。第6項には、「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。」とあり、正式な決定でないことは明らかである。このことは、SCAPIN677で日本から除外された琉球諸島や小笠原諸島が現実に返還されている事により証明されている。 | 連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号の解釈 | 北方領土はSCAPIN677により日本の行政権から明確に外されている。 |
| 日本はサンフランシスコ講和条約に調印し千島列島・南樺太を放棄したが、日本が放棄した千島列島に北方領土は含まれていない。千島に属するというソ連の意見があったにせよ、ソ連自身この条約に調印していない。 | サンフランシスコ講和条約 | サンフランシスコ講和条約において日本は千島列島を放棄している。 |
| ヤルタ協定の当事者であるアメリカは『北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当として認められなければならない』と戦後日本の領有権を一貫して支持している。 | アメリカの姿勢 | アメリカの姿勢は一貫していない。アメリカは1951年まではソ連の四島領有を認めていた。しかし米ソの関係が悪化していた1956年には、二島返還で妥結しようとする日本に対し、四島返還を主張しない場合沖縄を日本に返還しないと圧力をかけており、今日の北方領土問題はここに端を発している。従って、北方領土問題は冷戦から今に続く日本の対米従属を維持するための世論操作である[3]。 |
| 国後密約 | 1945年、北方領土警備の任務を受けていた中川中将、岩田中尉と交わした四島の暫定的移譲の合意密約「国後密約」の効力を認めている(1960年にロシア側で判明したが、日本はその存在を認めていない)[要出典]。 | |
| 欧州議会は、2005年7月7日に日本の立場の支持を決議している。 | その他 | (ロシアのウラジーミル・チジョフ外務次官は、「ばかげている」と反発した。) |
| アイヌは日本の先住民族である | 先住民の問題 | 北方領土には元々アイヌ民族が先住していたのであり、日本・ロシアのどちらの領土でもない。両国は、アイヌ民族の自決権に基づく決定に従うべきである[4]。 | |
[編集] 領土問題の交渉過程
1956年日ソ共同宣言では歯舞、色丹を平和条約締結後に日本に引き渡す取り決めを結ぶ(終戦後の日本国との平和条約にはソ連は調印していない)。しかし、択捉、国後の帰属を巡って対立、結局合意できなかった。その後、冷戦の進行によりソ連の立場は領土問題は解決済みへと変化した。日本もソ連との間では、まず北方領土問題が解決しなければ何もしないとの立場をとった。
1991年の4月にゴルバチョフ大統領が来日し、領土問題の存在を公式に認めた。1997年のクラスノヤルスク合意では、日本は「すべての分野について両国の関係を発展させる。その中に領土問題を含める」とし、両国の間で領土問題が明文化、共有された。
日本側は四島返還が大前提であるが、ロシア側は歯舞・色丹の引き渡し以上の妥協はするつもりがなく、それ以上の交渉は進展していない。
2005年11月21日の未明に、訪日したプーチン大統領と小泉純一郎首相(当時)の間で日露首脳会談が行われた。これによって領土問題の解決を期待する声もあったが、領土問題の交渉と解決への努力の継続を確認する旨を発表したのみに留まり、具体的な進展は何も得られなかった。 また、ロシア側も、原油価格の高騰による経済成長で日本に対し優位であることと、ラトビア、エストニアもソ連併合時に国境を変更させられたことから、両国などとの間にも国境問題を抱えており、北方領土解決を複雑にしている。
[編集] 地方自治体としての北方領土
北方領土四島には色丹村・泊村・留夜別村・留別村・紗那村・蘂取村の6村が地方自治体として存在していた。
現在では「北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律」(昭和57年8月)第11条により日本国民の誰でも本籍を置くことが可能となっている。これは上記6村が元来北海道根室支庁に属する自治体であったため、各村自治体が実効的な存在を喪失して以降も上位の地方自治組織が機能しているためである。現在この手続きは根室市役所が行っている。なお、同じく領有権の問題が残っている樺太に関しては、すでに樺太庁が消滅しているためこのような措置は行われていない。
[編集] ロシア施政下の北方領土
現在、ロシアの施政権が行使されている状態にある北方四島は、ロシアの行政区分ではサハリン州に属しているものとされている。
また、この地域は開発が遅れたためにカニやウニなどの魚介類を始め、ラッコやシマフクロウなど、北海道をはじめとした周辺地域では絶滅あるいはその危険性が高い生物の一種の「聖域」状態となっている。ロシア政府は北方領土を含む千島一帯をクリリスキー自然保護区に指定して、禁猟区・禁漁区を設定するなど、日本の環境保護行政以上の規制措置が取られている。だが、ソ連崩壊後には密猟などが後を絶たず、一部の海産物は日本国内に流れているという説もある。
現在、一部の環境保護団体の間には北方領土を含む千島一帯の世界遺産登録を求める主張があり、また日本の環境保護行政は水産関係団体や開発業者に対して甘すぎるため、領土返還後には貴重な生態系が破壊される恐れがあるとして返還を危惧する人達もいる。一方、日本国内にも領土問題とは一線を画して、北方領土の対岸で先に世界遺産に登録されている知床とともに、日露両国が共同で一つの世界遺産地域を作っていくべきである、という声もある。だが、世界遺産に登録された状態の北方領土が返還された場合、旧島民の持つ土地所有権や漁業権をどうするのかについて不透明であるために、何らかの特別法制定が必要となる可能性がある。
[編集] 四島返還以外に提言されている解決策
日本政府が従来から主張している四島一括返還論の他にも、北方領土問題については、日露両国で様々な解決策が提言されている。以下はその主なものである。
- 二島返還論:日ソ共同宣言に基づき、歯舞・色丹の二島をまず日本へ返還
- 三島返還論:国後島を日本領、択捉島をロシア領とすることで双方が妥協
- 共同統治論:択捉・国後の両島を日露で共同統治
- 面積2等分論:歯舞、色丹、国後の3島に加え、択捉の25%を日本に返還させ、択捉の75%をロシア側に譲渡。
歯舞・色丹の両島を日本領とすることでは、四島一括返還論も含めた全ての案で一致しており、それぞれの案で異なる点は、残りの択捉・国後の両島への対応である。
二島返還論は日本側においては主に「二島先行返還論」または「2+2方式」と称される案を指す。これは、日ソ共同宣言で日本への返還が確認されている歯舞・色丹の二島を、ひとまず日本側に返還させ、残った択捉・国後の両島については、両国の継続協議とする案である(二島返還論で詳述)。この方式の支持者としては鈴木宗男が知られており、当時の首相であった森喜朗も訪露した際、ロシア側へ提案したこともあるが、先方からは拒否された。鈴木宗男は、「二島先行返還論」はマスメディアによる造語であるとして、自らの立場を「段階的返還論」と呼んでいる[5]。対して、ロシア側における二島返還論とは主に、歯舞・色丹の返還のみでこの問題を決着させようとする案のことであり、現在のロシア政府の公式見解である。
三島返還論は別名を「フィフティ・フィフティ」と言い、中国とロシアが係争地の解決に用いた方式である。この方式では、領土紛争における過去の経緯は全く無視し、問題となっている領域を当事国で半分ずつ分割する。これを北方領土に形式的に当てはめると、国後島が日本領、択捉島上に国境線が引かれる、三島返還論に近い状態になる。岩下明裕(政治学者)はこの案を称揚しているが、もともとこの方式は、戦争により獲得した領土ではなく、単に国境をはさんだ2国のフロンティアがぶつかって明確な国境線が決め難かったケースに用いられたもので、北方領土問題には適用し難く、四島一括返還論に比べ実現する可能性が高いかどうかは不明瞭である。三島返還論に言及した政治家には、鳩山由紀夫、河野太郎らがいる。
共同統治論は「コンドミニウム」とも呼ばれ、近現代史上にいくつかの例がある[6]。成功例として代表的なものにはアンドラがあり、失敗例には樺太やニューヘブリディーズ諸島(現バヌアツ)がある。具体案としては、例えば、かつてのアンドラのように、日露両国に択捉・国後の両島への潜在主権を認めながらも、住民に広い自治権を与えることで自治地域とすることが考えられる。もし日露両政府が島の施政権を直に行使すれば、日露の公権力の混在から、樺太雑居地(1867-1875)のような混乱を招く可能性が指摘されている。このため、住民に自治権を認め、両政府が施政権を任せることで、そうした混乱を防ぐことが必要になる。また、両島を国際連合の信託統治地域とし、日露両国が施政権者となる方法も可能である。この場合は施政権の分担が問題となる。
共同統治論の日本側にとってのメリットとしては、難解な択捉・国後の領有問題を棚上げすることで、日本の漁民が両島の周辺で漁業を営めるようになることや、ロシア政府にも行政コストの負担を求められることなどが挙げられる。ロシア側にとってのメリットは、日本から官民を問わず投資や援助が期待でき、また、この地域における貿易の拡大も望めることである。共同統治論には、エリツィンや鳩山由紀夫、プリマコフ、ロシュコフ駐日ロシア大使(当時)、富田武(政治学者)らが言及している。
面積2等分論は歯舞群島、色丹島、国後島のすべてを足しても、鳥取県と同等の面積を持つ択捉島の半分に満たないことから浮上した案。国後など3島に択捉の西部の旧留別村を加えれば半分の面積になる。麻生太郎外務大臣が2006年12月13日の衆議院外務委員会での前原誠司民主党前代表の質問で明らかにしている。麻生は安倍内閣発足直後の報道各社のインタビューに「2島でも、4島でもない道を日露トップが決断すべき」と発言しており、この発言は世論の反応を見定めるアドバルーン発言の可能性が強い。現実にその直後、外務省との関係が深い福田康夫元官房長官が麻生案を激しく批判しており、この案が外務省主導ではなく、官邸も一部容認であることを窺わせる。福田は2006年7月に自民党総裁選から撤退して以降、公の場ではほとんど発言していない。2007年8月に外務大臣に再登板した町村信孝は麻生案を「論外だ!」と激しく批判。同領土問題の原則を、従来通り「4島一括返還」での問題の解決に当たることを強調した。
なお、以上の四案の他に、北方四島の潜在主権をロシアに残しつつ、その施政権を日本へ賃貸することがロシアの研究者から提案されたこともある。
[編集] 脚注
- ^ EU「Relations between the EU, China and Taiwan and security in the Far East」2006年8月20日確認
- ^ 北方領土問題「東京裁判判決(部分)」
- ^ 多極化と日本(2)北方領土と対米従属
- ^ ピリカ全国実行委員会 日ロ「領土交渉」に反対する共同声明
- ^ 國民新聞「二島先行返還論 鈴木宗男衆院議員に聞く(2)」
- ^ 世界飛び地領土研究会「共同統治領」
[編集] 関連項目
- 日本が抱える領土問題
[編集] 参考文献
- 和田春樹『北方領土問題――歴史と未来』朝日新聞社(朝日選書621)、1999年、ISBN 4022597216
- 木村汎『新版 日露国境交渉史 北方領土返還への道』角川学芸出版(角川選書)、2005年、ISBN 4047033863
- 長谷川毅『北方領土問題と日露関係』筑摩書房、2000年、ISBN 4480861114
- 岩下明裕『北方領土問題――4でも0でも、2でもなく』中央公論新社(中公新書1825)、2005年、ISBN 4121018257
- 下斗米伸夫『北方領土Q&A80』(小学館文庫)、1999年、ISBN 4094040048
- アイヌ・モシリ自治区を取り戻す会『アイヌ・モシリ――アイヌ民族から見た「北方領土返還」交渉』御茶の水書房、1992年、ISBN 4275014863
[編集] 外部リンク
[編集] 日本の公的機関のサイト
[編集] 上記以外のサイト
- 北方領土問題(日本政府とは無関係な北方領土問題の解説ページ)(「ソ連のカメラ・レンズ」内)
- 北方領土紛争は欠陥外交の好例(ジャパンタイムズ)
- 日ロ関係史 上智大学ロシア語学科 上野俊彦のレクチャー(PDF)
- 日ロ関係の新しいアプローチを求めて21世紀COEプログラム研究報告集
- 北方領土上陸記(スラブ研究センターニュース)
- 北方同盟
- Little known facts in history of the dispute (ロシア語).
- Russian view on the history of the dispute (ロシア語)
- Kuril Islands News Sakhalin.info (ロシア語)
- Sakhalin and the Kuriles during the Second World War (ロシア語)


